葉っぱを隠すには山の中と言う言葉があります。
見つけられたくない、隠したいものは、似たようなものに紛れさせよという考えです。
昔近文が親に煙草がばれそうになったとき、煙草の山の中に隠せば安全だったんでしょうか・・・。

近文は人ごみが嫌いです。
人ごみに酔う人っていませんか?近文がそうです。
大阪や京都に行ったときは、駅ですでに気分が悪くなりました・・・。街中はまさに拷問です。
祭りや花火大会などは、催し自体は好きですが、そういった理由からあまり行きません。
やむを得ず人ごみを行かなければならないときは、ひたすら足元だけを見て進みます。
無数の頭がうごめいている様子を見ただけで吐き気がします・・・。

近文は、知る人ぞ知る寂しがりやでもあります。
高校の時、帰宅部名誉部長だった近文は、放課後友達の部活動が終わるまで、何時間も待っていました。帰りの15分くらいの道を友達と帰るためだけに、2時間も3時間も待っていました。
ウサギやハムスターが孤独死するという話を聞いたことがありますが、近文も孤独死・・・ありうるのかも・・・。
単純に一人でいるときも孤独感はありますが、不思議なことに、大勢の友達の輪にいるときも、それは付きまといます。大勢と言っても、3人以上いれば孤独感が沸いてきます。
人ごみが苦手なのに、一人は寂しくて、なおかつ友達に囲まれていると孤独・・・。
ややこしい人間です・・・。

えてして人間はそういうものかもしれません。
自己主張をして自分の存在をアピールする人もいるし、いつも誰かと一緒にいるのに聞いてみたら一人でいるのが好きだと言う人もいます。
また、自殺や家出も同じように、自己主張の手段かもしれません。
悩んでいるんだ。寂しいんだ。自分をもっと気にかけて欲しい。
そういった気持ちが、それらの手段を選ばせるのかもしれません。

自分の存在がもし、誰にも気づいてもらえなければ。
誰にも気にかけてもらえなかったなら・・・。
近文はそれでも生きていくという自信がありません。

山に隠された葉っぱは、姿をすっかり隠して、いくら叫ぼうと見分けがつかなくなります。
目に映っていても、そこにあると分かっていても、特定できなくなります。
それはどれほどの恐怖でしょう。
「葉」という言葉で一くくりにされて、個々を見ることはありません。だから山に隠すと分からない。
人もあるいは、それと同じかもしれません。
人間というカテゴリ、人種というカテゴリ、学生、友達、兄弟、性別、親、子・・・。
一くくりにされて自身を見てもらえない恐怖は、それは想像を絶するものでしょう。
それでも人間は、喋ったり動いたりすることで、自己主張することが出来ます。
それに比べ、葉は喋ることも出来ず、自らの意思で動くことも出来ません。
しかし、彼らは立派に存在をアピールします。
春は実を包み彩り、夏は青々と輝き、秋は激しく燃え、冬は風に舞う。
四季折々姿を変えることで、葉は自らをアピールしているのかもしれません。
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by kinbun-r | 2005-11-03 20:08


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