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夕飯

今日もバイトでした。
バイトのある日は、何も食べずに行って、バイト先で休憩中におにぎりを二つ食べます。
帰ってきてからカップ麺を食べるのです。
果てしなく不健康な食生活です・・・。
でも体に悪いものはえてして美味しい・・・。
カップ麺も、年々美味しくなっている気がします。
ところがどっこい。近文は味覚音痴なので、どれがうまい!っていうのは分かりません。
というか全部うまいです・・・。
これだけしょっちゅうカップ麺を食べてたら、そのうちカップ麺なら任せろ!って
言えるんじゃないだろうかと思いながら、日々食べています。
が、一向に違いが分かるようになりません。
一念岩をも通す。食べ続けていればいずれ、近文も利きカップ麺が出来ることでしょう。

ブログのネタが無いから、こんなグダグダな記事だなんてことは決してありません・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-21 00:59

天才

天才の定義とは何でしょう。
かの画家サルバドール・ダリは「天才になりたければ、天才のふりをすればよい」と言ったそうです。しかし、どんな人を天才というかが分からなければ、振舞いようが無いです。
近文は特に天才になりたいと思ったことはありませんが、もしも自分に文才があったなら、もっとすばらしい文章を書けたのにと思うことは多々あります。
近文は大学のサークルで、文章を「読む側」の種類のサークルに所属しています。だから、文芸部など、「書く側」の人たちを尊敬します。

天才といえば、発明の父だか神だかと言われたトーマス・エジソン。
「天才とは1%の才能と、99%の努力である」と言った人ですね。
中学時代の友達に、某有名私立大学に入学した秀才がいます。彼の話によると、エジソンの言った言葉の直訳は、「天才とは1%の霊感と、99%の発汗である」だそうです。
霊感と発汗・・・。天才の親父ギャグは何十年何百年にも渡って語り継がれるようです・・・。

ダリは天才には振舞えばなれると言い、エジソンは親父ギャグをかます・・・。
親父ギャグを言うことが天才らしく振舞っているとは思えませんから、ダリに言わせればエジソンは天才ではないのでしょう。

ここで近文が、天才になるにはどうすればよいのか考えてみます。
朝起きたら人々は顔を洗います。朝食の前に歯を磨く人もいるでしょう。
だから近文はそれらをしなければ、天才に一歩近づきます。
着替えるときの注意点は、靴下の左右を「揃えない」こと。シャツは当然前後逆です。
夏ならば靴下を履いたままサンダルで出かけます。
電車のつり革は、ワッカを握るのではなく、ベルト部分をつまみます。
授業は最前列で寝ます。
昼食は運動場の真ん中でピクニック気分です。
家に帰るとテレビをつけて、出来るだけ遠くから双眼鏡などを使って観てみたりします。
風呂に入るのは週に1回でいいでしょう。
寝るときは必ず北枕です。
これらを実行すれば、近文は天才になれるやもしれません。

でも天才として大成する前に、精神を疑われて病院に収容されかねないので、これは想像の中にとどめます・・・。
落ちの無い駄文、恐縮です・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-16 01:34

日記

前にもブログを書いていました。わけあって今は更新していませんが・・・。
そのブログでは毎日必ず1件以上記事を書いていました。
ところがなぜか、このブログは・・・すみません。
でも理由が分かりました。前のブログでは、日記もそうですが、友達のブログを見て思ったこととか、ネット麻雀でのこととか、書く内容がたくさんあったんです。
ところが今回のブログは、全部日記や思ったこととかなんですね・・・。
自由に書いてもいいのがブログとは言え、なかなかうまくいかないものです・・・。

世の中には、おそらく日記をつけている人がいるでしょう。このブログを読んでいるか否かに限らず、日々の出来事を、思ったことを綴っている人がいると思います。
誰にも見せるつもりがないから、きっと本心を、恥ずかしがることなく書いていると思います。
まさにプライベートの塊です。誰にも見られぬよう、絶対に分からない場所に隠したり、常に肌身離さず持っていることと思います。毎日欠かさず何かを続けるってすごいですね・・・。

文字とは、太古からある伝達手段です。文字の歴史は文化の歴史です。意思・情報・文化・伝統。これらを人は、古来より文字によって伝えてきました。文字とは常に、相手がいてこそ存在価値を持ちます。人は「伝える」という目的意識を持って文字を刻むのです。

あくまでも近文の考えです。
日記を書くとき、前提として「誰にも見られない」ことを念頭において書いているでしょう。
しかし、見られない、伝えない文字に意味はありません。乗らない車が邪魔なだけなのと一緒です。乗って移動してこそ初めて、車は移動手段としての意義を発揮します。それは移動という目的を持って生まれた物だからです。
日記を書いている人も、必ずそれが分かっているし、意識せずとも無意識に、誰かに見られた場合を想定して言葉を選んでいるはずです。
そんなことはない。誰にも見せるつもりはない。そういう人は、一体何のために書くのか。
自分が後で、「このときこんなことがあったのか」と読み返して思い出すためだと言うのであれば、見せる相手は「未来の自分」として存在します。書くとは、見せるという前提が必ずあるのです。人に見られることを前提としてかく文章は、果たしてそのときの本心と言えるでしょうか。
若干違っているはずです。刹那の出来事と、その時の気持ちは、だから大切なのです。
「その時」は「その時」しか無いし、「今」は「今」しかないのです。

かくして近文の書くブログも、自由に書いても良いとは言え、「人に見られる」という条件がある以上、本当の意味で自由に書くことは出来ないようです・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-14 01:59

いろは

いろは歌は、日本に古くからある今で言う五十音です。
近文は講義で、いろは歌の暗号について教わったことがあり、それを聞いて背筋の寒くなる思いをしたのを覚えています。
その暗号とは、いろは歌を1列7文字で改行し、7段に分けて書くと現れるものです。
   いろはにほへ    (色は匂えど)
   ちりぬるをわ    (散りぬるを我が)
   よたれそつね    (世誰ぞ常な)
   らむうゐのお    (らむ宇井(有為)の奥)
   やまけふこへ    (山今日越えて)
   あさきゆめみ    (浅き夢見じ)
   ゑひもせ(ん)   (酔ひもせず)
各々の段の最後の文字を順に読むと、「とかなくてしす」です。これを漢字に変換すると、「咎無くて死す」となります。
この歌は、本来作者不明の歌なのですが、冤罪を着せられ死罪となった人が書いた歌と教わりました。柿本人麻呂の作品、または彼のことを詠ったものであるという説もあるようです。公に「お上」をバッシング出来なかった当時の世情が、こういった暗号を含む歌を作らせたのかもしれません。

ブラジルには、カポエラという格闘技があります。これが他のそれと比べて、非常にユニークなものです。音楽にあわせて、まるでダンスをしているかのような動きをします。この格闘技は、武器を持つことを許されなかった奴隷階級の人々が、奴隷主と戦うべく考え出されたものです。奴隷主に格闘技の訓練と気づかれないように、カモフラージュして出来た格闘技のようです。
カポエラに足技が多いのは、手かせをかけられていたためだそうです。

いろは歌もカポエラも、片や文学片や格闘技と、全く別の形ではありますが、どちらも当時の世情から生み出された知恵と思い訴えが込められています。今ではどちらも、「いろはかるた」や世界的な競技として広く愛されるものとなりましたが、そういった時代背景も関わっているのです。

いろは歌の前半の意味は、仏教の諸行無常と同じです。
「花々は咲き乱れ、良い匂いを放つけれども、いずれ散り行く。何人たりとも常に同じ姿で生き続けることなど出来ず、どんなものもそのままあり続けることは出来ない。」
これらの歴史の遺産も、いずれ記憶という形でしかのこらなくなり、それすらも消えるかもしれません。「我が世誰ぞ常ならむ」のです。
こうして近文は、いろは歌とカポエラの、歴史の暗い影を見たのでした・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-10 19:32

運命

今日も労働してまいりました。
近文の働くツタヤは、お世辞にも繁盛しているとは言えません。
まぁそれなり・・・です。
とはいえ今日は特に暇でした。
6時開始のシフトだったのですが、5時半にバイト先について、45分ごろでしょうか・・・カウンターが異常に混んでいたようで、まだ開始時間になっていないにも関わらず駆り出されました。
仕方が無いのは分かるのですが、出来れば給料をもらえる時間外は働きたくないのが人情です・・・。その時以外は非常に空いていて、それが逆に時間が経つのを遅く感じさせました。
長い長~いバイトでした・・・。

中学生のとき、音楽の授業でベートーベンの「運命」が出てきたとき、先生が言っていました。
「この曲の最初のじゃじゃじゃじゃ~ん!の部分は、運命のドアをノックする音を表している。」
この上なく信憑性にかけるお言葉ですね・・・。本当かどうかは結局分からずじまいです。

よく、運命を信じますか?という言葉を耳にします。映画、ドラマ、雑誌の占い欄・・・。
さて、あなたは信じますか?
近文は、ある意味で信じますが、またある意味では信じません。
近文が思う運命はこうです。
例えて言うなら、運命は「あみだくじの連続と交錯」です。どれを選ぶとどのルートを進み、どこにたどり着くか決まっているのがあみだくじですが、運命はそれに似ているのではないでしょうか。
選択する前は、無限の可能性があります。しかしひとつの道を選択することによって、選択肢が狭まり、ひとつのルートが決まります。しかし運命とあみだの違うところは、その選択がいくつもあるということです。幾たびの選択の連続を繰り返して、決まったルートと結果に向かっていきます。ひとつの区切りのつく選択もあれば、人生を左右する大きな選択もあり、それらが交錯しています。
「どれを選べばどうなるのか」は決まっているけれど、「どれを選ぶのか」は決まっていない。
これが近文の運命に対する考え方です。

「もしあの時こうしていたら」というのがテーマの映画もたくさんあります。小説やドラマや音楽の分野にもあるかもしれませんが、いかんせん近文は映画が得意でその他は不得意なのです。
挙げようと思えばいくらでも出てきそうですが、今思い浮かんだのは『天使のくれた時間』です。
かの名優、ニコラス・ケージ主演のラブストーリーです。
若いころ、仕事を選ぶか彼女を選ぶかの岐路にたたされ、結果仕事を選んだために、大成功を収め、莫大な資産を持った男が、ある朝起きると、仕事を取ったがために分かれてしまった彼女と、なぜか一緒に暮らしているのです。この朝が「天使がくれた時間」の始まりでした。結婚していて子供も二人いました。幸せな家庭を持ってはいたけれど、決して裕福とは言えない生活でした。あまり書くと見ていない人にとってはネタバレになって怒られそうなのでこのへんで・・・。
この映画もまさに、「あの時こうしていたら」ですね。
しかし、「あの時こうしていたら、もっと良かったかもしれない」という考え方は、すなわち、「あの時こうしていたら、もっと悪かったかもしれない」というのと同義です。

「ある」とも「ない」とも証明できない物を信用する、または信用しない理由を、論理立てて説明することは出来ませんが、そこは宗教と同じです。存在の有無に関係なく、ただ信じるのみ。
近文はたまたま、運命をある意味で信じ、またある意味で信じないという曖昧な答えを持っていますが、証明できないのだから各々の考えがあっていいのです。

・・・とは言え、やっぱり考えてしまいますね。
あぁ・・・もしも今日もう少し家を遅く出ていたなら、
時間外労働を強いられることもなかったのかな・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-09 01:50

リアルとネット

オンライン上で人と交流を深めると、その中でよく「リアル」と「ネット」という言葉で区別されます。リアルとは、インターネット上でのこと以外の日常生活を指し、ネットとはゲームを含むネット上の活動を指します。これは普段の会話で出てくるものではなく、ネット上での会話中、それを区別するために使います。

しかし近文は、この区別の仕方がよくわかりません。というより納得できない部分があります。みんなが使う言葉なので、「ゲームでのことではない」ということが伝わりやすいため、近文も使ってはいますが、個人的にはあまり好きではない分け方です。
そもそもそこで言うリアルとネットとは、別のものでしょうか?ネット上の生活や付き合いも、私にとってはリアルです。「ネット」で知り合った「リアル」な友達です。

一時期出会い系サイトを利用した犯罪が横行しました。模倣犯も数多く出没し、世間を震撼させました。そこで言われていたのは、顔も見えない、どこの誰かも分からない相手と一人で会うのは危険であるということ。果たしてそう言えるのでしょうか。それなら顔を知った人と一人で会うのは、必ずしも安全と言い切れるのでしょうか。こればかりは個人の考え方なので、こうだと言い切ることはできませんが、近文は、それは少し間違っていると思います。
顔が見えるから安全っていうのは、意味が分からないというか・・・。それでは、犯罪すべてにネットが関わっているのかというと、そうでもありません。

また、何かの事件があると、警察ないしメディアは、周辺住民に加害者の印象を聞きます。そこでよく聞くのは、「まさかあんなことをするような人だとは思わなかった」「大人しくてとても優しい人だった」などです。顔を見ていても、しばしばその印象とはかけ離れたことを起こすことがあるようです。それでも、「顔が見えない、どこの誰かも分からない人」=「危険」と言えるでしょうか。

近文は「リアル」と「ネット」を区別していません。
いくら顔も知っている話したこともある「リアル」の知り合いでも、付き合いが浅ければ信用し切れませんし、「ネット」の知り合いでも、長く付き合っていく中で、信用し、信頼しあって、お互いを認めることができます。そう考えれば名前や住所や電話番号などのいわゆる個人情報を教えたりするのも、実際に会うのも、「リアル」でそれが普通であるように、危険なことなどではなく、至極普通のことだと思うのです。

またネット上では、文字のみの交流になります。ゲームではキャラクターの行動などもありますが。そこで肝心なのは、文字だけだから自分を装うことが出来る、だから信用できないと考えること。それは間違っているように思います。
文字だけの交流だと、自分に危険は及びません。だからこそ、自分を包み隠さず、ありのままを出せると思うのです。リアルでは、対人関係やその場の空気など、色々なことを考えてものを言うし、態度も変わります。しかしネット上では、それが多少なりとも少なく、その人の本質が見えてくる気がします。

以前ハンゲームというオンラインゲームをしていたとき、そこで知り合った友達同士が実際に付き合いだしたこともありましたし、私が知らないだけで、きっと結婚まで行った人たちもいるでしょう。でもそれは、まったく変だとは思いません。文字からお互いの本質を見て、惹かれあったからこそでしょう。その二人はとても幸せそうでした。

「どうせネットだし」「所詮文字だけの世界だし」ではなく、だからこそ相手の本当の姿が見えると思うのです。しかしそれは、あくまでも近文の考え方です。それを人に押し付ける気はないし、それが間違いなく正しいと思っているわけでもありません。ただ近文は、「リアル」「ネット」と区別するのはおかしいと思うだけです。「ネット」とは「リアル」の一部なのです。ネット上の付き合いも友達も生活も、私にとってはリアルで、かけがえのないものです。
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by kinbun-r | 2005-11-06 13:57

耳をすませば

最近めっきり寒くなってきました。
みなさん風邪など引かぬようお気をつけ下さい。
近文家は1週間ほど前に、すでに風邪ウィルスの魔の手に落ちました・・・。
地域によっても違うでしょうが、近文の住むところは、夏は猛暑で冬は極寒・・・。
この時期は、昼間と夜の気温差が激しいため、風邪を引きやすいです。
昼間暖かいからと油断して、薄着で出かけると、夜帰りに痛い目を見ます。
それが季節の変わり目は風邪を引きやすいという仕組みですね。

秋の風物詩と言えば、虫の声があげられます。
しかし虫は声を出しているわけではなく、翅を震わせて、あるいはこすり合わせて音を出しているので、虫の音と言ったほうが正しいかもしれません。
ところが日本には、「虫の声」という表現もなされます。なぜでしょう・・・。
また、日本には擬音語・擬態語があります。ところが海外には、少なくともアメリカには、日本のそれにあたる言葉が無く、怪談話で有名な小泉八雲が、外国人であることは有名ですが、八雲に、彼の妻・小泉節子が日本の怪談を教えた時、訳に困ったのだそうです。怪談話には擬音語・擬態語は必須ですからね。
虫の音も、他国ではノイズと解釈されているようです。風流だなんて言うのは日本くらいなようです。

日本という国は、あらゆるものに季節を見出し、言葉にしてきました。季語です。
そして何気ない物に意味をつけ、感動を生みます。
それらは本来、人が捉えているような文学的な意味を持たず、生物学的な意味を持っています。しかしそこに、情緒や感動を見て、詩や物語、歌にしてきました。
それらは意味を「持っている」のではなく、人の感性によって「持たされる」のです。
虫の音を「声」と言うのも、人がそう聞くからこそなのです。
今も耳をすませば、古の時代の人々も聞いたであろう歴史の声が、草むらから、木の上から、聞こえてはきませんか?
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by kinbun-r | 2005-11-05 15:20

葉っぱを隠すには山の中と言う言葉があります。
見つけられたくない、隠したいものは、似たようなものに紛れさせよという考えです。
昔近文が親に煙草がばれそうになったとき、煙草の山の中に隠せば安全だったんでしょうか・・・。

近文は人ごみが嫌いです。
人ごみに酔う人っていませんか?近文がそうです。
大阪や京都に行ったときは、駅ですでに気分が悪くなりました・・・。街中はまさに拷問です。
祭りや花火大会などは、催し自体は好きですが、そういった理由からあまり行きません。
やむを得ず人ごみを行かなければならないときは、ひたすら足元だけを見て進みます。
無数の頭がうごめいている様子を見ただけで吐き気がします・・・。

近文は、知る人ぞ知る寂しがりやでもあります。
高校の時、帰宅部名誉部長だった近文は、放課後友達の部活動が終わるまで、何時間も待っていました。帰りの15分くらいの道を友達と帰るためだけに、2時間も3時間も待っていました。
ウサギやハムスターが孤独死するという話を聞いたことがありますが、近文も孤独死・・・ありうるのかも・・・。
単純に一人でいるときも孤独感はありますが、不思議なことに、大勢の友達の輪にいるときも、それは付きまといます。大勢と言っても、3人以上いれば孤独感が沸いてきます。
人ごみが苦手なのに、一人は寂しくて、なおかつ友達に囲まれていると孤独・・・。
ややこしい人間です・・・。

えてして人間はそういうものかもしれません。
自己主張をして自分の存在をアピールする人もいるし、いつも誰かと一緒にいるのに聞いてみたら一人でいるのが好きだと言う人もいます。
また、自殺や家出も同じように、自己主張の手段かもしれません。
悩んでいるんだ。寂しいんだ。自分をもっと気にかけて欲しい。
そういった気持ちが、それらの手段を選ばせるのかもしれません。

自分の存在がもし、誰にも気づいてもらえなければ。
誰にも気にかけてもらえなかったなら・・・。
近文はそれでも生きていくという自信がありません。

山に隠された葉っぱは、姿をすっかり隠して、いくら叫ぼうと見分けがつかなくなります。
目に映っていても、そこにあると分かっていても、特定できなくなります。
それはどれほどの恐怖でしょう。
「葉」という言葉で一くくりにされて、個々を見ることはありません。だから山に隠すと分からない。
人もあるいは、それと同じかもしれません。
人間というカテゴリ、人種というカテゴリ、学生、友達、兄弟、性別、親、子・・・。
一くくりにされて自身を見てもらえない恐怖は、それは想像を絶するものでしょう。
それでも人間は、喋ったり動いたりすることで、自己主張することが出来ます。
それに比べ、葉は喋ることも出来ず、自らの意思で動くことも出来ません。
しかし、彼らは立派に存在をアピールします。
春は実を包み彩り、夏は青々と輝き、秋は激しく燃え、冬は風に舞う。
四季折々姿を変えることで、葉は自らをアピールしているのかもしれません。
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by kinbun-r | 2005-11-03 20:08

近文は毎年、秋から冬にかけて、夜中ベランダに出て夜空を眺めます。
案外ロマンチックな一面も持ってるんですw
今の時期は空気が澄んでいて、月や星が綺麗に見えますね^^
秋から冬にかけて、あえて寒い時期を選んで夜空を見るのは、そこに理由があります。
冬は凍えながら、煙草を吸いつつ星を見ています。
近文はオリオン座が好きです。

ここで星座の話を・・・。
オリオンは狩人だったそうです。狩りの女神アルテミスと一緒に生活していました。
アルテミスの兄アポロンは、それが気に入らなかったそうです。
オリオンが海を泳いでいるとき、遠くからそれを見つけたアポロンが、アルテミスに言いました。
「いくらお前が狩りの女神でも、あれほど遠くの小さな物を弓で射ることは出来ないだろう。」
挑発に乗ったアルテミスが、それがオリオンの頭とは知らず、射抜いてしまうそうです。
悲しみの末、アルテミスはオリオンを星座にしたのだそうです。

近文はたまに神話を読みます。オリオンの話もギリシャ神話を読んで知りました。
ギリシャ神話や大和神話、インド神話にペルシャ神話。世界には数多くの神話がありますね^^
どの神話を読んでみても、共通していることがあります。
それは、「神々はとても人間らしい」ということ。
時には怒り、時には悲しみ、また時には喜んで。
その喜怒哀楽の様子、感情の変化は、まさに人間そのものです。
欲に満ちている言動からも、神々が人間を作るとき、自分の姿に似せたというのも頷けます。中身まで似せて作ったのなら、「神々が人間らしい」のではなく、「人間が神らしい」のかもしれません。

前置きが長くなってしまった・・・・。
月ですw
国によって見え方が違いますよね。
日本ではウサギが餅をついているように見えます。
中国では蟹だそうです。
他にも女性の顔っていうのも聞いたことがありますね。
見え方は国によってさまざまです。虹の色の数が国によって違うのと同じですね。
国によってといえば、山の絵を描いた場合、その形も国によって違うようです。
日本は言うまでもありませんが、ハワイでは山の絵は平たいんだとか・・・。
それは溶岩の粘性が関わっているようです。
ハワイ諸島の付近で噴出する溶岩は、粘性が低く、さらさらと流れて固まるため、出来る山が平たいんですね。
また話がそれました・・・。月ですw
昔は月で暦を作りましたね。太陰暦というものです。旧暦とも言われます。
これは月の満ち欠けを基準にしたカレンダーですね。
それが後に太陽暦へと変わります。そのせいで生まれた誤差によって、少し問題になったことがあります。それはイエス・キリストの誕生日。元々旧暦でキリストの誕生日を数えていたのに、新暦になってもそのままだったために、誕生日がずれたんだとか・・・違ったかな?w
キリストの話は若干うろ覚えなのであまり人に言わないでください・・・。
月の満ち欠けと、潮の満ち引きが関係あるという話も聞いたことがあります。
月の引力によって潮が引いたり満ちたりするようです。
月に魅入られた人々が苦心の末、月に到達したのが1969年です。
リアルタイムで見た人たちはさることながら、最初に文字通り「前人未踏」の地に歴史の足跡を残した人は、何を考えていたのでしょう。ウサギはどこだと探してみたかも・・・。

見え方が違うとはいえ、本来その形は変わりません。
太陽の光を受けて、反射し、地球から見たその形がそれぞれの見え方をするわけですが、その時点でもやはり形は同じです。ではなぜ国によって見え方が違うのか。
それは先入観かもしれません。だからこそ国によって見え方が決まっているのです。
日本では昔から、「月にはウサギが住んでいて、餅をついている」と言い伝えられています。
だからこそ私たちは、月にウサギを見るのです。もしもそれが象だと言われれば、あるいはそう見えたかもしれません。

人の価値観は様々です。多種多様・人の数だけ・十人十色・・・。
それぞれに意思がある以上、人の価値観を全て受け入れることは非常に困難です。
しかし、受け入れることが難しくとも、理解することは出来ます。
ある人は月にウサギを見るし、ある人は蟹を見ます。
ある人は山が高くそびえて見え、またある人は平たく見えます。
それが普通で、至極当たり前のことです。
自分がそう見えるから、またはそう思うからと言って、人の考えを否定するのは間違っていますし、かといって自分の意見を曲げてまで従うのは変です。
ならばどうするか。大勢の人の意見を聞いて、考えて、自分の意思を示すのです。
それが理解を示すことではないでしょうか。
神々の多くが、不死の能力を持っていながら、その身を滅ぼしたのは、互いの意思を尊重せず、自分の欲に忠実に動いた成れの果てです。
受け入れられずとも、理解できたのなら、彼らも平穏な日々を送っていたかもしれません。
人もまた然り。
違いを理解する心のゆとりを持てたらいいですね^^

最後に一言。
長いだけでまとまりの無い駄文を読み耐えてくださってありがとうございました┏○ペコッ
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by kinbun-r | 2005-11-03 02:12

ジグソーパズル

一時期趣味と言ってもいいほどはまっていました^^
集中すると時が経つのも忘れます。
1ピース1ピースはまるごとに、完成に近づいていきます。
最後はボンドで固めて額に入れて保存します。
遠目から見ると、まるで1枚の絵のようです。
久しぶりに買いに行こうかな・・・。

今日は、RSで所属しているギルドの人たちと、ハンゲームで麻雀をしてきました^^
ところが近文、大遅刻を・・・。すみません・・・。
夕方学校に行って、サークルの学園祭のパンフレットに載せる作品論を提出しにいったんです。
近文は、出してさっさと帰るつもりだったんですが・・・。
作品論を見せると、なにやら雲行きが怪しくなりました・・・。
どうやら出来が悪かったようです^^;
サークルの人にも手伝ってもらって、何とかなったのはいいものの・・・
終わったのが11時過ぎでした・・・。学校は、距離的にはさほど遠くないですが、交通の便が悪く、行きは1時間、帰りは1時間半くらいかかります。
所詮言い訳ですけど^^;遅れてすみませんでした┏○ペコッ

サークルの人たちとは、最初は結構仲が良かったんです。
先輩とも喋ったり遊んだり出来て、同回生とも仲が良くて、遅くまで喋ったりご飯を作ってもらったり、悩み相談に乗ったこともままありました。
サークル内では比較的、居心地の良いポジションでした。
引越しが多かったので、転校もかなり経験したせいか、良く喋る、社交的な性格になったように思います。だから結構人付き合いは得意な方だと思っていました。友達もすぐ出来たし。
ところが少しずつずれ始めて、今ではかなり関係が悪いです^^;
詳しく書くと卒論レベルにまで長引きそうなので、簡潔に言うと恋愛が絡んでたりするんです。
徐々に開いた溝を埋める術を知らず、出来る限り避けるようになってしまいました・・・。
人間関係・・・難しいです・・・。

人間関係はジグソーパズルに似ています。
1ピースごとに、ちゃんと意味があり、それを作るために欠かせないものです。
初めから完成しているジグソーパズルは無く、徐々に築き上げるのです。
ただもしも1ピース、たった1ピースずれていて、その事に気づかなかったらどうでしょう?
あるいは気づくのが遅かったら?
ずれてしまってすぐ、間違いに気づけば修復できます。
でもそれが遅れると、いずれどこでどう狂ったのかが分からなくなります。
無数のピースを重ね合わせて出来た、幾通りもの絵が存在し、それが並びあって世界が出来ています。
1つ1つのジグソーパズルのカケラが、自分のルーツとなります。
全てがバランス良く繋がっていて、初めて完成させられます。
ところがそのバランスは微妙であるために、間違っていることに気づきにくいのです。
厄介な事に、どうやらこのジグソーパズルはなかなか完成しないもののようです。
そもそも完成など無いのかもしれません。
無限ピースのジグソーパズルをつなぎ合わせ、全てを組み合わせた時、満足出来る絵が出来るでしょうか・・・。または、今までつなげたピースはずれていませんか?
熱中するのも良いですが、失敗しないためには、ジグソーパズルを少し離れて見てみることです。
ずれいるのか、いないのか。客観的な目で、距離をとって見てみると、今まで気づかずにいた「ずれ」に気づくことが出来るかもしれません。
どうか1ピース1ピースを大切に。
願わくば、最後に綺麗な1枚の絵画とならんことを・・・。
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by kinbun-r | 2005-11-01 03:29