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忘我の末に

夢を持っていました。
未来の自分がそうなるものと思い込み、
疑いもしませんでした。

大きくなりました。
可能性を知りました。
妥協を知りました。
挫折を知りました。

大人になりました。
夢は絶たれました。


詩みたいになってしまいました・・・。
誰もが夢や理想を持って日々すごしています。
子供のころは、夢と予知(とでも言うのか)が同義でした。
○○になりたい=○○になる だったように思います。
みなさんはどうですか?

夢に限らず、元々持っていた、こうありたいだとか、こうあるべきという、
ある意味で自分の中の正義が、
現実を知っていく工程で、薄れていくのを実感します。
理由はさまざまですが、環境然り、交友関係然り、進路然りです。
近文はまだ、人間としては新人なのでしょう。
20歳年上の方、30歳年上の方、40歳年上の方々から見れば、
私が何を言おうと、「まだまだだな」「若い若い」「何もわかっていない」
と思うかもしれません。
では何歳から「わかる」のでしょうか。
目上の方々が、人生の先輩であり、尊敬すべきであることは承知していますし、
実際頭を垂れる心持で接しています。
しかし、例えば30歳上の人が私をまだまだと思うのと同じように、
その人より30歳上の人が見れば、その人すらまだまだなのでしょう。
有限の命の中で、どこから「わかった」ことになるのか、
そもそもその線引きは可能なのか。

話がそれました。
本来持っていた自分の中の正義が、
あらゆる要因によって歪んだり崩れたりしたとき、
それを挫折といいます。
夢を持って生きろとよく言われますが、
挫折を避けるべく、夢を持たないことも、
その人の中では正しい選択なのです。
それを寂しいと思うのは周囲の見解で、
当人にとってそれがいいのであれば、
間違いではないのです。
要は、得られることを選ぶのか、失わないことを選ぶのかです。
自分の中の正義の持ち方によって、どのような結果が出ようとも、
それはすべて自分の選んだ道によってたどり着いたものである以上、
素晴らしいものといえます。
気持ちの上で、積極的な姿勢を持つか、消極的な姿勢でいるかを選んだ末、
良い結果が出ようとも、悪い結果が出ようとも、
いずれくるかもしれない「わかる」瞬間へとつながっているのでしょう。
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by kinbun-r | 2006-04-27 00:12

神道

今日のお題は「宗教」だそうです。
高校の時、倫理の授業を受けて、少し宗教に興味を持ち、本を読む中で多少の知識を得ました。
宗教と一口に言っても、多種多様なものがあります。
日本はもともと仏教国ではなく、独自の宗教、神道を持っていました。
神道の、他の宗教と大きく違う点は、多くの神がいることです。
その数なんと八百万といわれています。
神道には全知全能の神というものはおらず、万物に神が宿るというものです。
他宗教と共通して言えるのは、神道の神もまた、人間にとても似ている点です。
泣き、笑い、怒り、悲しむ。
驚くべきことに、神の血を引いている家系があるのですね。
それが天皇家です。
インターネットや図書館で調べれば、神から天皇までの家系図を知ることができます。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が、われわれの直接の祖先となる、いわゆる人間ですが、
神というわけではないようです。
それは、両者が、天皇家の直系ではないからなのだそうです。
神が始まりで、伊弉諾尊と伊弉冉尊が最初の人間であるにも関わらず、
人間である天皇家の直系ではなく、天皇家は神の子孫。
摩訶不思議ですね。
人間と神が同時にいて、神の子が天皇家、最初の人は作り物ということでしょうか・・・。
その後、日本史では天皇家が出てくるまでの間、神の子孫と思われるような人物は、
出てこなかったように思うのですが、それは日本史の授業を寝ていたからなのでしょうか・・・。

かのマッカーサーは、日本を占領した後、天皇を殺さずにいた理由が、
日本という国において、天皇の存在は、意識の上で「王」ではなく、
「神」に近いものであると感じ、殺せば暴動が起きると考え、天皇家を残したのだそうです。
日本人が天皇家を神とするならば、税金の一部は神への貢物でしょうか・・・。
天皇家を批判するつもりはないので、この辺にしましょう。
すでに十分非国民ですね・・・。

怖いと思うとき、不安に思うとき、つらいときに、人は心のよりどころを探します。
神道もまた、他宗教と同じように、混沌とした気持ちのよりどころとして定められたものであるはずです。
天皇家が神の血筋であるのは、よりどころを失いたくなかったからでしょう。
私個人は無宗教なので、神の存在を信じているわけではありません。
天皇家は神の血筋というのは、そういった、よりどころを失いたくないという気持ちが生んだ、
後付された事実であると考えます。
それは確認できるものではありませんが、仮に真実でなかったにせよ、
それで救われるのであれば、それが事実であるべきでしょう。

人を救うのは神ではありません。
神を信じ、救われたいと願い、救ってくれる存在を意識化で作り出す気持ち。
それこそが神であり、人を救う絶対的なものなのです。

神道ではありませんが、仏壇で、花を生けるとき、花を仏のほうに向けず、
拝む人間のほうに向けて生けるのは、
仏の像がすなわち仏ではなく、仏は人の中にあると考えるからこそです。
神と名を変えても、仏と名を変えても、
その絶対的な、人を救う存在は、常に人の中にあるのです。
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by kinbun-r | 2006-04-17 02:34

幻想世界

さる人から「お化け」とお題をいただいたので、
今日はお化けについて語ります。

お化けと妖怪は、たびたび混同されがちですが、違います。
妖怪は化けて出るとか、実態が無いというものではありません。
火の玉も飛ばないし、墓地に良く出るわけでも、夜出るわけでもありません。
いたるところに現れ、時に人々をおびえさせ、時に人の役にたつ。
そんな人間味のある生き物です。

お題が「妖怪」ではなく、「お化け」であるため、お化けに絡めた逸話を。

近文は、某大手レンタルショップでアルバイトをしています。
かれこれ1年半ほど続けていますが、一度こんなクレームがありました。
家で借りたビデオがデッキに詰まったとのことです。
それ自体は少ないものではありません。
しかしその人の借りたビデオというのが・・・。

「呪われたビデオ」

ついてないとしか言いようがないですね・・・。
想像してみてください。家で呪いのビデオを見ようとしたらデッキに詰まる・・・。
確かに怖いですね^^;
心から同情します。

たまにテレビで、心霊写真などの特別番組や番組内のコーナーがありますが、
私は見るたび、そう見ようとするから見えるのではと思います。
近文、お化けの存在を信じないつもりですが、夜道を歩いていると、
後ろに誰かいるような気がしたり、お化け屋敷が怖かったり、
ホラー映画を観たあとでトイレに行くのが若干怖かったりというのは、人並みにあります。
となると、信じないというのはイコール信じたくない、あるいはあってほしくないという、
恐怖心からくるものではなかろうかと思います。

実際、お化けはいないと立証することは出来ないでしょう。
そういう意味では、お化けもいるのかもしれません。「いる」ではなく「ある」でしょうか・・・。
臨死体験なども、少ない話ではないし、私の祖父も昔火の玉を見たと言っていました。

人は、視覚に依存しています。
目に見えるものは、それだけで存在を肯定されます。
多くの人は、お化けを見たことがなく、ゆえに信じません。
しかし、お化けを見た「かもしれない」人は、信用するでしょう。
目の前にあるものが、もしも目の錯覚だったなら。
目の前にあるものが、実はまったく別のもの、あるいはそこになかったら。

お化けもまたそのような曖昧なものではないでしょうか。
いるけれど見えないのかもしれません。
視覚に依存した私たちは、その存在を否定しますが、
見える=ある 見えない=ない
という感覚さえ取り去ってしまえば、無いと言い切ることは出来ません。

実は、この世の中が存在しているのかも、自分自身や、あるいは自我というものが、
存在しているのかさえも、至極曖昧なものなのです。
この世の中そのものも、そこにあるものも、すべて幻想だったら、
あなたはどう思いますか?

映画鑑賞が趣味の近文。
ここで参考映画を挙げてみます。
有名なので見たことのある方も多いでしょう。
「アザーズ」「マトリックス」「シックスセンス」
是非ご覧ください。
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by kinbun-r | 2006-04-15 03:29

春はあけぼの

はるはあけぼの やうやうしろくなりゆくやまぎは
すこしあかりて むらさきだちたるくもの ほそくたなびきたる

このブログは、COFFEE BREAKという名前になりましたが、
徒然日記というのも選択肢にありました。余談です。

春は明け方が綺麗である。だんだんと白んでゆく山際は絶景だ。
と、春は早朝がなんとも荘厳なすばらしい景観を持っていると言われますが、
近文、もっぱら春眠暁を覚えずで御座候。

もう寝なければと思いつつ、調子に乗って1日に2つも記事を書いたりしているから、
そのようなことになるのですね・・・。
みなさん、夜更かしには気をつけませう。
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by kinbun-r | 2006-04-14 02:44

羊が1匹羊が2匹。。。

まったく更新せずすみません・・・。
RSプレイ中に、友達との会話の中で、ブログを再度書いてみようと思うにいたりました、近文です。
何か書くネタはないものか・・・。

みなさん眠れないときどうしますか?
近文は基本的に読書なのですが、いかんせん逆に目が覚める・・・。
読み進むうちに、次はどうなるのか、気になって余計に集中してしまうんですね。
小説じゃなくて、六法全書でも読めばいいのだろうか・・・。

多くの人は知っていると思います。
羊が1匹羊が2匹・・・っていう催眠方法(?)を。
効くわけがないと分かっていつつも、ちょっとやってみたくなったりしませんか?
最高何匹数えた!とか、小学校のときはちょっと張り合ったりしました。
あれは元々、英語のsheepとsleepの音が似ているから、sleepからsheepに移り、日本に渡って羊になったようです。どの時点で羊になったのかは知りません。
なので、英語で数えて初めて、暗示の効果があるんですね。
いくら羊を数えても、眠れるわけはありません・・・。

近文の場合、羊の登場の仕方などにバリエーションがあります。
最初は、ただ羊が走ってきて、柵を飛び越えて去るだけです。
でも飽きてくるので、たまに丸刈りになった羊が現れたりします。
うまく柵を飛び越えられず、激突する羊もいたりします。
それにも飽きてくると、今度は視点が上空に移ります。
上空から牧場を見下ろしている視点です。
牧場内を羊が走り回り、土煙で数字を描いてから走り去るというパターン。
あげれば他にもたくさんあります。
でもやはり眠れません・・・。
いろいろなパターンを考えているうちに、楽しくなってきて眠気が逆に飛びます・・・。

ついこの間、眠れないことがあったのですが、それとは違う理由で目がさえました。
羊が1匹羊が2匹・・・。
いろんなパターンで数えていたときのこと、40匹目くらいでふと気づいたんです。

羊ってそもそも単位は匹だろうか・・・。

気になりだすともうだめです。完全に目が覚めてしまいました。
羊は1頭2頭だと思うんです。なぜ1匹2匹と数えるのか、知っている方がいましたら、是非教えてください・・・。

気になって仕方のないことはよくあります。
でもえてしてそれは、さほど気にするほどのものでは無いようです。
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by kinbun-r | 2006-04-13 12:46