表裏一体

バイト先にそりの合わない後輩がいます。
仕事もせず喋ってばかり。
喋っていたせいで仕事が進んでいないのに、
時間がなくなると人に自分の仕事を割り振る。
店のやり方があるにもかかわらず、我流で進めるために後々周囲を困らす。
あげればきりがありませんが、これは単に私が嫌いなだけとはいえないのではないでしょうか。
非常識だと思うのは近文だけでしょうか・・・。

過去の強烈な記憶が、突如、何かの拍子に思い出したりよみがえってくることがあります。
それをフラッシュバックというようです。
形はさまざまですが、夢という形で出てくることも多いようです。
あまりの強烈さに、その記憶は改竄されたり、削除されることもあります。
それがあることをきっかけによみがえる。
忘れたり書き換えることによって、心をコントロールし、守る作業が、記憶喪失の正体だったりします。
頭をぶつけたりするなどの、外的な要因もありますが、
映画や本などで、知識の上で身近なのは、心的要因でしょう。

近文は記憶喪失は未経験ですが、同じように鮮明な過去の記憶というものはあり、
それが夢や何かの拍子に表出することがままあります。
幼いころは、人並みにとは言えないほどに、よく事故にあいました。
単にドジだと言ってしまえばそれまでですが、注意散漫なのかもしれません。
同じことですね^^;
幼稚園か小学1年のとき、車にはねられました。
飛び出したために起きた事故であったため、こちらの不注意です。
不思議なのは、左側から来た車にはねられたにもかかわらず、なぜか後方にとんだことです。
近文は根っからの文型なので、力学は分かりません。
今でも不思議です。
そのせいか、横断歩道を渡るとき、右側から来る車には何も感じませんが、
左側から来る車は少し怖いのです。
フラッシュバックというほど大げさなものではありませんが、
それもまた、過去の記憶によるものではなかろうかと思います。

近文は狭い場所が苦手です。
圧迫感には耐え難いものがあります。
物理的な圧迫感然りですが、精神的な圧迫感も例外ではありません。
車にはねられたのと同時期、近所のお兄さんに、
ゴムプールの中に私を入れたまま、ゴムプールを折り曲げ、
サンドイッチのようにして中に閉じ込められました。
出られない。狭い。息苦しい。
やはりそういった経験からなのでしょうか。
未だに狭い場所は苦手です。
エレベーターでも早く出たくてたまりませんし、
そういった物理的な閉鎖空間のみならず、
卒業式などの、途中退室出来ないという、
精神的な束縛もまた、圧迫感を持ちます。
逃げられないだとか、出られないだとか、
間接的な閉所とでもいいましょうか、
物理的なそれよりもむしろ、そういった精神的なもののほうが、
耐え難いもののように思います。
三つ子の魂百までという諺がありますが、こういったこともそのうちなのかもしれません。

バイト先の店長が、後輩のことについて言っていました。
どうやら彼は、昔いじめられていたようです。
店長の見解では、そういった経験が、彼の性格が歪む原因になったのではとのことです。
周囲に迷惑がかかっている以上、それは言い訳にすぎませんが、
やむをえない部分もあるのでしょうか。
左から来る車が怖いことや、狭い場所が怖いのを、
何とかしろと言われても、なかなか出来ません。
彼もそういう意味では、よく喋るその様子とは裏腹に、
対人恐怖症の一面があるのかもしれません。
心の中と行動は、えてして外から見ると、相反するものであるように思います。
周りから見れば、仕事もせずよく喋る人でも、
実は人と接することを、とても恐れているのかもしれません。
人は見かけによらないと言いますし、彼もまたそうなのでしょうか。
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# by kinbun-r | 2006-05-04 05:12

忘我の末に

夢を持っていました。
未来の自分がそうなるものと思い込み、
疑いもしませんでした。

大きくなりました。
可能性を知りました。
妥協を知りました。
挫折を知りました。

大人になりました。
夢は絶たれました。


詩みたいになってしまいました・・・。
誰もが夢や理想を持って日々すごしています。
子供のころは、夢と予知(とでも言うのか)が同義でした。
○○になりたい=○○になる だったように思います。
みなさんはどうですか?

夢に限らず、元々持っていた、こうありたいだとか、こうあるべきという、
ある意味で自分の中の正義が、
現実を知っていく工程で、薄れていくのを実感します。
理由はさまざまですが、環境然り、交友関係然り、進路然りです。
近文はまだ、人間としては新人なのでしょう。
20歳年上の方、30歳年上の方、40歳年上の方々から見れば、
私が何を言おうと、「まだまだだな」「若い若い」「何もわかっていない」
と思うかもしれません。
では何歳から「わかる」のでしょうか。
目上の方々が、人生の先輩であり、尊敬すべきであることは承知していますし、
実際頭を垂れる心持で接しています。
しかし、例えば30歳上の人が私をまだまだと思うのと同じように、
その人より30歳上の人が見れば、その人すらまだまだなのでしょう。
有限の命の中で、どこから「わかった」ことになるのか、
そもそもその線引きは可能なのか。

話がそれました。
本来持っていた自分の中の正義が、
あらゆる要因によって歪んだり崩れたりしたとき、
それを挫折といいます。
夢を持って生きろとよく言われますが、
挫折を避けるべく、夢を持たないことも、
その人の中では正しい選択なのです。
それを寂しいと思うのは周囲の見解で、
当人にとってそれがいいのであれば、
間違いではないのです。
要は、得られることを選ぶのか、失わないことを選ぶのかです。
自分の中の正義の持ち方によって、どのような結果が出ようとも、
それはすべて自分の選んだ道によってたどり着いたものである以上、
素晴らしいものといえます。
気持ちの上で、積極的な姿勢を持つか、消極的な姿勢でいるかを選んだ末、
良い結果が出ようとも、悪い結果が出ようとも、
いずれくるかもしれない「わかる」瞬間へとつながっているのでしょう。
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# by kinbun-r | 2006-04-27 00:12

神道

今日のお題は「宗教」だそうです。
高校の時、倫理の授業を受けて、少し宗教に興味を持ち、本を読む中で多少の知識を得ました。
宗教と一口に言っても、多種多様なものがあります。
日本はもともと仏教国ではなく、独自の宗教、神道を持っていました。
神道の、他の宗教と大きく違う点は、多くの神がいることです。
その数なんと八百万といわれています。
神道には全知全能の神というものはおらず、万物に神が宿るというものです。
他宗教と共通して言えるのは、神道の神もまた、人間にとても似ている点です。
泣き、笑い、怒り、悲しむ。
驚くべきことに、神の血を引いている家系があるのですね。
それが天皇家です。
インターネットや図書館で調べれば、神から天皇までの家系図を知ることができます。
伊弉諾尊と伊弉冉尊が、われわれの直接の祖先となる、いわゆる人間ですが、
神というわけではないようです。
それは、両者が、天皇家の直系ではないからなのだそうです。
神が始まりで、伊弉諾尊と伊弉冉尊が最初の人間であるにも関わらず、
人間である天皇家の直系ではなく、天皇家は神の子孫。
摩訶不思議ですね。
人間と神が同時にいて、神の子が天皇家、最初の人は作り物ということでしょうか・・・。
その後、日本史では天皇家が出てくるまでの間、神の子孫と思われるような人物は、
出てこなかったように思うのですが、それは日本史の授業を寝ていたからなのでしょうか・・・。

かのマッカーサーは、日本を占領した後、天皇を殺さずにいた理由が、
日本という国において、天皇の存在は、意識の上で「王」ではなく、
「神」に近いものであると感じ、殺せば暴動が起きると考え、天皇家を残したのだそうです。
日本人が天皇家を神とするならば、税金の一部は神への貢物でしょうか・・・。
天皇家を批判するつもりはないので、この辺にしましょう。
すでに十分非国民ですね・・・。

怖いと思うとき、不安に思うとき、つらいときに、人は心のよりどころを探します。
神道もまた、他宗教と同じように、混沌とした気持ちのよりどころとして定められたものであるはずです。
天皇家が神の血筋であるのは、よりどころを失いたくなかったからでしょう。
私個人は無宗教なので、神の存在を信じているわけではありません。
天皇家は神の血筋というのは、そういった、よりどころを失いたくないという気持ちが生んだ、
後付された事実であると考えます。
それは確認できるものではありませんが、仮に真実でなかったにせよ、
それで救われるのであれば、それが事実であるべきでしょう。

人を救うのは神ではありません。
神を信じ、救われたいと願い、救ってくれる存在を意識化で作り出す気持ち。
それこそが神であり、人を救う絶対的なものなのです。

神道ではありませんが、仏壇で、花を生けるとき、花を仏のほうに向けず、
拝む人間のほうに向けて生けるのは、
仏の像がすなわち仏ではなく、仏は人の中にあると考えるからこそです。
神と名を変えても、仏と名を変えても、
その絶対的な、人を救う存在は、常に人の中にあるのです。
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# by kinbun-r | 2006-04-17 02:34