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天才

天才の定義とは何でしょう。
かの画家サルバドール・ダリは「天才になりたければ、天才のふりをすればよい」と言ったそうです。しかし、どんな人を天才というかが分からなければ、振舞いようが無いです。
近文は特に天才になりたいと思ったことはありませんが、もしも自分に文才があったなら、もっとすばらしい文章を書けたのにと思うことは多々あります。
近文は大学のサークルで、文章を「読む側」の種類のサークルに所属しています。だから、文芸部など、「書く側」の人たちを尊敬します。

天才といえば、発明の父だか神だかと言われたトーマス・エジソン。
「天才とは1%の才能と、99%の努力である」と言った人ですね。
中学時代の友達に、某有名私立大学に入学した秀才がいます。彼の話によると、エジソンの言った言葉の直訳は、「天才とは1%の霊感と、99%の発汗である」だそうです。
霊感と発汗・・・。天才の親父ギャグは何十年何百年にも渡って語り継がれるようです・・・。

ダリは天才には振舞えばなれると言い、エジソンは親父ギャグをかます・・・。
親父ギャグを言うことが天才らしく振舞っているとは思えませんから、ダリに言わせればエジソンは天才ではないのでしょう。

ここで近文が、天才になるにはどうすればよいのか考えてみます。
朝起きたら人々は顔を洗います。朝食の前に歯を磨く人もいるでしょう。
だから近文はそれらをしなければ、天才に一歩近づきます。
着替えるときの注意点は、靴下の左右を「揃えない」こと。シャツは当然前後逆です。
夏ならば靴下を履いたままサンダルで出かけます。
電車のつり革は、ワッカを握るのではなく、ベルト部分をつまみます。
授業は最前列で寝ます。
昼食は運動場の真ん中でピクニック気分です。
家に帰るとテレビをつけて、出来るだけ遠くから双眼鏡などを使って観てみたりします。
風呂に入るのは週に1回でいいでしょう。
寝るときは必ず北枕です。
これらを実行すれば、近文は天才になれるやもしれません。

でも天才として大成する前に、精神を疑われて病院に収容されかねないので、これは想像の中にとどめます・・・。
落ちの無い駄文、恐縮です・・・。
# by kinbun-r | 2005-11-16 01:34

日記

前にもブログを書いていました。わけあって今は更新していませんが・・・。
そのブログでは毎日必ず1件以上記事を書いていました。
ところがなぜか、このブログは・・・すみません。
でも理由が分かりました。前のブログでは、日記もそうですが、友達のブログを見て思ったこととか、ネット麻雀でのこととか、書く内容がたくさんあったんです。
ところが今回のブログは、全部日記や思ったこととかなんですね・・・。
自由に書いてもいいのがブログとは言え、なかなかうまくいかないものです・・・。

世の中には、おそらく日記をつけている人がいるでしょう。このブログを読んでいるか否かに限らず、日々の出来事を、思ったことを綴っている人がいると思います。
誰にも見せるつもりがないから、きっと本心を、恥ずかしがることなく書いていると思います。
まさにプライベートの塊です。誰にも見られぬよう、絶対に分からない場所に隠したり、常に肌身離さず持っていることと思います。毎日欠かさず何かを続けるってすごいですね・・・。

文字とは、太古からある伝達手段です。文字の歴史は文化の歴史です。意思・情報・文化・伝統。これらを人は、古来より文字によって伝えてきました。文字とは常に、相手がいてこそ存在価値を持ちます。人は「伝える」という目的意識を持って文字を刻むのです。

あくまでも近文の考えです。
日記を書くとき、前提として「誰にも見られない」ことを念頭において書いているでしょう。
しかし、見られない、伝えない文字に意味はありません。乗らない車が邪魔なだけなのと一緒です。乗って移動してこそ初めて、車は移動手段としての意義を発揮します。それは移動という目的を持って生まれた物だからです。
日記を書いている人も、必ずそれが分かっているし、意識せずとも無意識に、誰かに見られた場合を想定して言葉を選んでいるはずです。
そんなことはない。誰にも見せるつもりはない。そういう人は、一体何のために書くのか。
自分が後で、「このときこんなことがあったのか」と読み返して思い出すためだと言うのであれば、見せる相手は「未来の自分」として存在します。書くとは、見せるという前提が必ずあるのです。人に見られることを前提としてかく文章は、果たしてそのときの本心と言えるでしょうか。
若干違っているはずです。刹那の出来事と、その時の気持ちは、だから大切なのです。
「その時」は「その時」しか無いし、「今」は「今」しかないのです。

かくして近文の書くブログも、自由に書いても良いとは言え、「人に見られる」という条件がある以上、本当の意味で自由に書くことは出来ないようです・・・。
# by kinbun-r | 2005-11-14 01:59

いろは

いろは歌は、日本に古くからある今で言う五十音です。
近文は講義で、いろは歌の暗号について教わったことがあり、それを聞いて背筋の寒くなる思いをしたのを覚えています。
その暗号とは、いろは歌を1列7文字で改行し、7段に分けて書くと現れるものです。
   いろはにほへ    (色は匂えど)
   ちりぬるをわ    (散りぬるを我が)
   よたれそつね    (世誰ぞ常な)
   らむうゐのお    (らむ宇井(有為)の奥)
   やまけふこへ    (山今日越えて)
   あさきゆめみ    (浅き夢見じ)
   ゑひもせ(ん)   (酔ひもせず)
各々の段の最後の文字を順に読むと、「とかなくてしす」です。これを漢字に変換すると、「咎無くて死す」となります。
この歌は、本来作者不明の歌なのですが、冤罪を着せられ死罪となった人が書いた歌と教わりました。柿本人麻呂の作品、または彼のことを詠ったものであるという説もあるようです。公に「お上」をバッシング出来なかった当時の世情が、こういった暗号を含む歌を作らせたのかもしれません。

ブラジルには、カポエラという格闘技があります。これが他のそれと比べて、非常にユニークなものです。音楽にあわせて、まるでダンスをしているかのような動きをします。この格闘技は、武器を持つことを許されなかった奴隷階級の人々が、奴隷主と戦うべく考え出されたものです。奴隷主に格闘技の訓練と気づかれないように、カモフラージュして出来た格闘技のようです。
カポエラに足技が多いのは、手かせをかけられていたためだそうです。

いろは歌もカポエラも、片や文学片や格闘技と、全く別の形ではありますが、どちらも当時の世情から生み出された知恵と思い訴えが込められています。今ではどちらも、「いろはかるた」や世界的な競技として広く愛されるものとなりましたが、そういった時代背景も関わっているのです。

いろは歌の前半の意味は、仏教の諸行無常と同じです。
「花々は咲き乱れ、良い匂いを放つけれども、いずれ散り行く。何人たりとも常に同じ姿で生き続けることなど出来ず、どんなものもそのままあり続けることは出来ない。」
これらの歴史の遺産も、いずれ記憶という形でしかのこらなくなり、それすらも消えるかもしれません。「我が世誰ぞ常ならむ」のです。
こうして近文は、いろは歌とカポエラの、歴史の暗い影を見たのでした・・・。
# by kinbun-r | 2005-11-10 19:32