前にもブログを書いていました。わけあって今は更新していませんが・・・。
そのブログでは毎日必ず1件以上記事を書いていました。
ところがなぜか、このブログは・・・すみません。
でも理由が分かりました。前のブログでは、日記もそうですが、友達のブログを見て思ったこととか、ネット麻雀でのこととか、書く内容がたくさんあったんです。
ところが今回のブログは、全部日記や思ったこととかなんですね・・・。
自由に書いてもいいのがブログとは言え、なかなかうまくいかないものです・・・。
世の中には、おそらく日記をつけている人がいるでしょう。このブログを読んでいるか否かに限らず、日々の出来事を、思ったことを綴っている人がいると思います。
誰にも見せるつもりがないから、きっと本心を、恥ずかしがることなく書いていると思います。
まさにプライベートの塊です。誰にも見られぬよう、絶対に分からない場所に隠したり、常に肌身離さず持っていることと思います。毎日欠かさず何かを続けるってすごいですね・・・。
文字とは、太古からある伝達手段です。文字の歴史は文化の歴史です。意思・情報・文化・伝統。これらを人は、古来より文字によって伝えてきました。文字とは常に、相手がいてこそ存在価値を持ちます。人は「伝える」という目的意識を持って文字を刻むのです。
あくまでも近文の考えです。
日記を書くとき、前提として「誰にも見られない」ことを念頭において書いているでしょう。
しかし、見られない、伝えない文字に意味はありません。乗らない車が邪魔なだけなのと一緒です。乗って移動してこそ初めて、車は移動手段としての意義を発揮します。それは移動という目的を持って生まれた物だからです。
日記を書いている人も、必ずそれが分かっているし、意識せずとも無意識に、誰かに見られた場合を想定して言葉を選んでいるはずです。
そんなことはない。誰にも見せるつもりはない。そういう人は、一体何のために書くのか。
自分が後で、「このときこんなことがあったのか」と読み返して思い出すためだと言うのであれば、見せる相手は「未来の自分」として存在します。書くとは、見せるという前提が必ずあるのです。人に見られることを前提としてかく文章は、果たしてそのときの本心と言えるでしょうか。
若干違っているはずです。刹那の出来事と、その時の気持ちは、だから大切なのです。
「その時」は「その時」しか無いし、「今」は「今」しかないのです。
かくして近文の書くブログも、自由に書いても良いとは言え、「人に見られる」という条件がある以上、本当の意味で自由に書くことは出来ないようです・・・。